【今夜のコラム】 自身の死数値について
今日は、久しぶり真面目な考察を書こうと思う。
いや、このようなことを書けば、いささか、不愉快、または、私から離れてゆく人もいるかもしれない。しかし、あえて書きたい。
自分の「死」について考えてみた。これは、外科的病気や交通事故は別とし、
置かれた環境、すなわち、貧困、ストレスなど、偏った状況に置かれた際、死ぬか、死を選ぶか、のことを考えた。
仮に、人が死に際に置かれた場合、「死数」という値があったとして、それが100に到達すれば、死ぬ、という考え方だ。
借金まみれになり、首も回らず、生活もままならず、人を信じれなくなった時、人は死ぬか、死を選ぶ、と聞く。そう、上記「死数」が100に達した場合だ。
この「100」は、そう国債のように、他人に預けても良いのではないか、という極地的な考えだ。
例えば、指数が80を超え、死がチラチラしてきた時、この死数を他人に擦りつけて、死を避け、更生し、生きながらえても良いのではないかと思った。
人を殺めてはいけない、この前提であれば、ある程度資産をもった人の物を盗む、殺さなければ、多少は傷付けても良い、また、コンビニで包丁を用い、物品や金品を我が物にし、死数値を減らす。
もちろん、背景がわからない限りは、そのコンビニは倒産に追いやられ、また、資産家はショックから死ぬかもしれない。ただ、その確率は低いという前提でことを考える。
自身の死を、皆でシェアし、自身含め、4人で25%ずつ「死」を抱えれば、誰も死なない。このような考え方を是正しようというつもりはない。強盗も、引ったくりも、犯罪は犯罪で、社会的、モラル的、あらゆる点で良くないのは当然だ。
ただ、尊い命を守る、そう、死数を分散化することにより、死ぬ人は減り、
人口減少にも歯止めがかかる、そういう点で、司法はともかく、社会は「死数」を減らすことを、少しは寛容に見て良いのではないか? また死数が近い人は、このシェアリングを意識し、楽に物事を考えられるのではないかと思う。実際、生きることに切羽詰まり、犯罪を犯し、よりダウナーになっている。
上にも書いたが、犯罪を是正するつもりはないが、社会及び死数が近い当事者は、もう少しポップに考えても良いのではないか?とそう思ったのである。
私が解いた「死」のシェアリングが正しくなる前に、まだまだ生きやすい社会を構築することを願う、前提で、この戯言を書いてみた。
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