話は少しさかのぼる。
私が小学生、低学年のころのささやかな楽しみは、「貯金」であった。
貯金といっても、お年玉は母親が回収し、将来の私のために管理してくれていた。
毎日もらう、50円の小遣いを使わずに、学習の引出しにチャリンと貯め、
この小銭が500円になったら、母親に(当時は)500円札に両替してもらい、1,000円札が10枚になったら5千円札、そして長い年月をかけ、1万円(札)まで貯めたのであった。
感無量であった。
たかだか1万円であるが、小学生低学年の私らにとっては、100万円に近い貯蓄であった。
何かを買うのではなく、ゲーム感覚でお金を増やして行くのは実に楽しかったし、ちょっとしたライフイベントであったのだ。
そして、さらに2万円を目指すべく、50円玉を引出しに納めようとしたところ、先日、達成した1万円札が、どこを探してもないのである。
私はあまりにもショックで大泣きし、母にその旨をうったえたところ、それは**(兄)の仕業よ、黙っときなさい、私があげるから、**にそんなこと泣きついたら、何されるかわからんよ、とまあ1万円は、経由は違うにせよ戻ってきたことだし、一件落着と思いながら、半分は納得のいかない部分であった。人の、しかも弟のお金を盗むなんて許せない、でも恐いので言えない、そんな煩悶があったのを覚えている。
時は経ち、私が高校1年の終わりころ、珍しく、兄がにこにこしながら、私の部屋に入ってきたのである。おう、ヒロシ、ギターは上達したか?ちょっと弾いてみせろ、と言われたので、だいぶ上達した私にとっては、うきうきとし、ボンジョヴィのLivin’ On A Prayerのギターリフを弾いたのである。兄は「おう、ヒロシ、上手くなったやないか、ほれ、これ取っとけ」と言って1万円札を私に手渡したのである。礼を言う間もなく、兄は上機嫌で口笛(ヤンキーが吹く、上あごと舌でならすスィ~という音色である)を拭きながら、若葉とコーラとダサいクッションの匂いが立ち込める自室に戻っていったのである。
さてはて、これは何なんだ!?商売(ガラス細工のネットワーク)が儲かっているからなのか、10数年前に私の引出しから盗んだ1万円の代償なのか、その行為自体、不思議でならなかったが、なんか、自分の芸でお金がもらえた、しかも、やはり兄は弟思いなんだ!と少し心が温かくなったのを覚えている。
そんな兄も社会人になったとはいえ、あまり宜しくない仕事をしているのは、私にも分かった。様々なメジャーのスカウターから(ヤクザの勧誘から)、オファーをもらっていたそうだが、全て断ったそうだ。うちの兄は、悪いのは悪いが、私の一万円盗みは別として、シンナーや薬、入れ墨やコロシなどは一切やっておらず、クリーンに北九州を統一していたのである。
兄も兄で色々考えていたようだ。良い車にのり、良い女と結婚し、10代のうちに子供を作って成人式に出るという、たったそれだけの目標のため、3か月で1級防水建築士の免許を取り、即さま、起業。「**技建」というまともな会社を立ち上げては、達者な口説き文句と、確かな技術力で、その防水の会社は半年で父の会社の業績を抜いた。あの年代の人の多くにある、「ごく単純な理由」のため、短期で血を吐きながら目標を達成する、これは貧弱な私には出来ない技であった。
私は音楽を目指すという理由を良いことにフリーターを長く続けたが、26歳にはちゃんと就職、翌年には結婚し、31歳で長女を授かった。しばらく、連絡を取っていなかった兄から携帯に入電があった。就職先の仕事場にてである。「おう、ヒロシ、元気知るか!?」かろやかな甲高い声である。高校の時にギターを披露してみろ、といったあの感じである。しかし兄から連絡があると、いつも悪い予感を感じていた」
就職したてのころ、父から格安で譲り受けたマツダボンゴ(ワンボックスカー)に乗っていたころである。出勤しようと駐車場に向かっていたところ、兄から電話があり(その時はかろやかでなく、重低音が効いた甲高い声だった)、「おう、ヒロシ、お前のボンゴ今すぐ貸せ、現場の車が足りんのじゃ」と。私は「いやあ、今から車で出勤だから、、」と断ると「いいけ、貸せ!!」といって、ジャイアンみたいに車を取られたのである。私は渋々、タクシーで会社へ向かった。兄は切羽詰まれば、より恐ろしい。そりゃ、プロのスカウトもスカウトにくるわ、と感じざるを得なかった。
そんな兄からの入電である。ガラケーの表示には**兄。嫌な予感しかなかった。
「おう、今夜××のジョイフル(というファミレス)でエリカ(私の妻)と来てくれんか?詳細はその時話すわ、じゃあの~」 嫌な予感しかない。
妻に事情(事情というほど中身は詰まっていない)を伝え、お互い渋々とジョイフルへ向かった。ジョイフルに入ると一番奥のテーブルから、手を挙げて呼ぶ声が。「お~う、ヒロシ、来てくれてありがと!エリカも元気か?」いやに馴れ馴れしい。驚いたのはなぜか兄は頭をまるめており(もともと短髪であったが)、隣に奥さん(義姉)も座っていたのである。そして、飲み物でも注文するのかなと思いきや、兄、義姉、二人そろって、テーブルの上で土下座(?)をし、「頼むヒロシ、仕事でやり被った、もう金を借りれるところがない、保証人になってくれ」と、まあ悪い予感は的中したのである。
当然、驚いているため、即答が出来ず、「ちょっと裏で嫁と話あっても良いか」と伝えると「わかった」とひとこと返された。私の心臓はバクバクしていた。嫁もそうであったであろう。
恥ずかしながら、良い年齢をして、まだ両親の価値観下にあった私は、ファミレスの外に出て母に電話した。「こうこうこう、で」と。母は即答「絶対、(保証人に)なりなさんな!」近くで父のうなずく声も聞こえた。ということで、兄には、「嫁とも相談し、世間をしらない僕ら、まだ先もあるので、何かあったら恐いので、兄弟でも保証人にはなれない」と、勇気をもって返答した。しかし、さらに兄たちは「頼む」といってさらに頭を下げてきたが「できない」と断った。心苦しいところもあった。
兄は「そうか、そりゃそうやの、でも、もうお前たちと会うことはないの。俺はこれからマグロ漁船にのるか、運が悪かったら、コンクリート結ばれて、海に捨てられるやろうからの」と捨て台詞ではないが、妙な警告をして解散したのであった。
9月のまだ暑い時期であったと思う。
そうこう、それから兄からの連絡もなく、少しは兄の行方を気にしていた。
秋が過ぎ、冬になり、正月、実家で新年会を行うことになった。
すこし新年会開始時期に遅れた私たち夫婦であったが、実家の応接間(で新年会をやっていた)の扉を開けると、何の事件もなかったように「おう、ヒロシか、やっと来たの、アケマシテオメデト」と9月のあの一件が夢であったかのように、普通に振舞っていた、もちろん義姉も。みなりは高級そうな革ジャンや銀の装飾品をじゃらじゃらつけた、所謂、若手実業家のようだった(実際そうだ)。どうやら、不渡りは免れ、経営を立ちなおし、更に上手く行ってそうな、饒舌ぶりであった。二度と会うことがないとコミットしてから、わずか4ヶ月後に、みごとな再開をしたのであった。このようなことは幾度とあったのは言うまでもない。
終わりにしようと思ったが、思い出したことがあったので最後に記す。
私が高校2年のころ、親友Fが私の部屋で(私のうちはたまり場になっていた)、ファミスタをやっていて、腹が減ったので、近くのほか弁(現:ホットモット)にのり弁でも買いにいこうやと、いそいそと玄関へ。出くわした兄が「オマエラ、どこいくんか?」「いや、腹減ったんので、ほか弁でもね」「じゃあ乗っていけや」とかなり厳ついベンツに乗せられ、親友Fはかなり緊張していた。ほか弁までわずか500mかそこら。車で行く距離ではないが、兄は見栄っ張りのため、成功した男のベンツを見せびらかせたかったようだ。
兄は今も「北九州を統一」している。
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